六日前のメモ
『ごちそうさまでした。ん、これ、すんげえ美味しかった、また食べたい』
君がトントン、と二回指を指したそれは、私が記憶していた、母の料理だった。どうしても食べたくなり、私の体がそれを求めたので、久しぶりに料理をした。お酒のつまみにとてもよく合っていて、君との夕方に、最高の組み合わせだった。
私に微笑むとき、必ず眼を見てくる。私がどこを向いていても、どの角度からでもそうだ。
声、好き。時間を嗜むことが、お互いの過ごし方で、それがまた幸せだった。
『ね、ひとつ聞いてもい?』
「うん、なに?」
蛇口を捻った私に、いつものように、優しい力を使った話し方をする。
私は、コップの口を、丁寧に擦った。
『どうしてさ、左の袖口はまくらないの?』
「別に深い意味はないけど」
『なら、まくって』
あれ、。こんなに口から、水、出てたっけ。
さっきから音が、音がうるさい。
私って、爪こんなに伸びてたっけ。
「どうして?」
『いつもそうだから』
「いい、このままでいいのお願い」
君は、流し台に預けていた体を、私の方へ、重心をずらした。左手で、私の、まとまりきれずにこぼれた材料を、わざと、ゆっくり、耳にかけた。
音が途切れた。
水圧が、段々と強くなっていって、息をするのが難しくなった。さっきまで出来ていたことが、簡単に出来なくなってしまった。
君は、何も言わずに、ただ露わになった私の右半分を、じっと、見つめていた。
『そっか。分かった。』
空気を含んだ言葉を、呆気なく飛ばして、まだ始めたばかりの水を、君は止めた。はずなのに、どうも水が排水溝へと流れる音が、鳴り止むことはなかった。
後ろでまとめられた私は、とても短いはずなのに、今にも視線が天井に曲がりそうなほど、全てを吸収しすぎていた。
「だめ」
だめ、だめだ、だめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだ、気づけば、ただの私を前に、水は勢いを更に増して、とうとう蛇口すら吹き飛ばしてしまっていた。床にぶち当たった。はずなのに、瞬きが邪魔になるほど静かだった。全てを覆い囲むように動き出すと、私の目の前に、ひとつだけの海が現れた。青黒かった。ここで魚は泳げない。
確かに視線は合っていない。でも、私は何も逸らせなかった。そこ以外、何も見られなかった。そのままを刻むことが、伝わっているだろうか。形を失う前と、そのあとでは、聞こえる速さはどれだけ違うだろうか。自分から漏れ出す鼓動は、煙に包まれた醜いものだろうか。僕は、君の声がずっと、ずっと好きだった
あれ、違う、
水と違った音が聞こえる。
君の足音だ。
『ただいま。
あ〜さむいねここ。
なにしてるの?』
あ、
「おかえり、今日はね、久しぶりに料理してるの」
『あ、すごい、美味しそうだね。すぐに手、洗ってくる。』
私の左腕は、同じ幅で切りそろえられていて、お皿に綺麗に盛り付けてあった。
パセリとレモンを添えて、和食というより、フレンチだった。
「きったない」
何故か、爪と皮膚の間の汚れだけは落とせなくて、悔しかった。そんなことはどうでもよかった。
今日も、愛しい声が聞こえる。
嬉しくて嬉しくて、急いでテーブルに持って行こうとしたとき、足元に転がっていた蛇口につまづいてしまった。なんとか着地したのものの、お皿の右端のふたきれが、無気力に落ちてしまった。
洗面台から戻ってきた君が、それを見て笑った。今までに見たことがないくらい、筋肉が全面協力した笑顔だった。
私はとても、幸せだった。
『じゃあ、食べよっか』
速くなった。